ヨコハマ赤牛紀行(元町と中華街の巻)

 レッドブルの初公道走行のお話はこちらへ。

●さて、レッドブルの走行を見て。

 イベントが終了したのが午前10時。

 ここからは、近隣のお店の商品搬入とかで一般車両が通行できないと困るので、イベントを見に来ていた観客たちは早々にはけてもらいたいのが警察および商店街の方々の考えなのでしょうが。

 とはいえ、さっきまで歩道全部ぎっちぎちに埋め尽くしていた人がいきなりいなくなるわけもなく。

 商店街は、歩道はおろか道路も含めて、あちこちに移動する人々でごったがえしてわやくちゃ状態。


 で。
 11時から歩行者天国&チャリティーイベントになるまで、手持ち無沙汰なわけです。

 お店はまだ開いてない。
 辺りは人だらけの人混み状態。

 朝食がカロリーメイトだけだったので、いい加減何か口にしたいし、暑さで喉も渇いたし。
 かといって、お店がどこも開いてない上、人混みで休むこともままならない。

 しょうがないので、とりあえず混雑の元町商店街から離れるべく、山の手のほうに移動してみました。


●ということで、息を切らせながら坂の上へ、上へ。
 それにしても急な坂だ、冗談抜きで傾斜30度以上あるんじゃなかろうか。

 後日調べたところによると、この坂は汐汲坂というそうで。
 名前の通り、汲み上げた海水をこの坂を通って丘の上へ担ぎ上げたそうな。

 それにしても、まだ6月になった午前中だというのに、天気がいいせいか気温が高く、半袖でも暑いくらいですよ。
 初夏の陽気に汗をかきつつ急な坂を上ることしばし。

 で。

 とりあえず坂を上って、上りきったところにたまたまあったカトリック山手教会へ。

  

 カトリック山手教会(カトリックやまてきょうかい)は、神奈川県横浜市にあるカトリックの教会堂。英語名はSacred Heart Cathedral(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区のカテドラル=司教座聖堂=大聖堂である。
 現在の山下町にあった横浜天主堂が移転し、1906年現在地に創建。1923年の関東大震災で倒壊した。ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により1933年に再建され、現在に至る。併設施設として三育(みこころ)幼稚園がある。(Wikipediaより)



 天舞は無宗教なのですが、父方の祖父母はキリスト教なので、賛美歌とかミサとか牧師さんの説法とか経験があるのですよ。
 まあ、宗派がカトリックなのかプロテスタントなのかすらよく分かってない程度のキリスト教経験なのですけどね。

 日曜だからか、教会の中はミサの真っ最中のようで、賛美歌が響き渡ってました。
 無宗教が邪魔をするのも無粋なので、ちらっと中を覗き見してさっさと退散。


 なお、この付近(横浜の山手)はかつて外人居留地だったこともあり、洋館が非常に多く建てられてるそうで。
 通りには「横浜元町洋館巡り」なる、地図と洋館の場所が書かれた案内もありました。

 この教会のすぐ横には、有名なフェリス女学院大学が。
 ここも洋館巡りの建物に記載されてるんですが、どの辺りが洋館なのかいまいち分からなかったのと、学校を写真に撮ってるのは不審者っぽくないかという考えで撮影はスルー。


●そのままさらにブラブラと時間を潰すべく徒歩。
 どっか座って一息つけるところがないものか、と思いつつ歩いたのですが、ないもんですね。

 喫茶店っぽいとこは数件見かけたのですが、まだ開いてないか、あっても何故か入りづらいオーラを醸しだしているか。

 なんだろう、あの入り口に黒板でメニュー掲げてて、こじんまりとした、いかにも「アットホームでオシャレなCaféです^^」という作りの喫茶店の入りづらさは。
 まあ、気にせず入っちゃえばいいんでしょうが、どーしてもそんな気になれず、山手付近を通り沿いに歩いてたら、ちょっと公園っぽいところに出ました。
 そして木々の先には、エリスマン邸。

  

 エリスマン邸は、生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍した、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の邸宅として、大正14(1925)年から15(1926)年にかけて山手町127番地に建てられました。設計は、「現代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドです。
 当時は木造2階建て、和館つきで建築面積は約81坪。屋根はスレート葺、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館でした。煙突、ベランダ、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸といった異人館的要素をもちながら、軒の水平線の強調など、設計者レーモンドの師匠である世界的建築家F.L.ライトの影響も見られます。
 昭和57(1982)年マンション建築のため解体されましたが、平成2(1990)年元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現されました。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームなどがあり、簡潔なデザインを再現しています。椅子やテーブルなどの家具は、レーモンドが設計したものです。かつて3つの寝室があった2階は、写真や図面で山手の洋館に関する資料を展示しています。また、地下ホールは貸し出しスペースとして、昔の厨房部分は、喫茶コーナーとしてご利用いただけます。(財団法人 横浜市緑の協会の説明より)



 公園部分はベンチがあったのですが、すでにすべて埋まっていて座りようがない。
 致し方なく、エリスマン邸の中をのぞいてみることに。

 中には喫茶店が入っていて、ここで座ってのんびりお茶とかできるのです。
 が! すでに満席!
 のんびりできない! 残念!

 しかし、木々に囲われてるおかげで日差しが遮られて涼しくて良い感じです。
 やっと空いたベンチに腰掛けてしばしの休憩。

 建物の横〜裏手には遊歩道のような作りの公園があって、木々と緑に囲まれてリフレッシュしながら散歩できるのですが。

 季節は6月。
 初夏の陽気。

 すぐ傍らに生い茂る木々ということは、それすなわち昆虫にとってもステキな環境ということでして。

 5分ほど歩いたのですが、生息する羽虫の体当たりに嫌気がさしてさっさと撤収。


 あとは厳島神社に行きました。
 横浜で厳島? どういうこと? 広島じゃないの? 安芸の宮島と何か関係が?

  

 厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、横浜市中区にある神社である。 横浜村の鎮守で、宗像三女神(市杵島姫尊、多紀理姫尊、多岐都姫尊)を祭神とする。
 元来は洲干島(しゅうかんじま)とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称した。 創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられる。 足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えている。
 浜辺の松林で覆われた境内は対岸の神奈川宿台町からの眺望十五景の一つ(「洲干雪」)にも数えられるほどの景勝地であった。 また境内には瓢箪池があり、清水が湧き出たため「清水弁天」とも、また所在地から「横浜弁天」とも呼ばれた。敷地は南は太田町5丁目、北は南仲通5丁目、東は弁天通5丁目、西は海岸で寄州になっており、1万2千坪という広々とした場所であった。今の神奈川県立歴史博物館(横浜正金銀行本店跡)のあたりに一の鳥居があった。鳥居は四の鳥居まで存在していたとされる。開港後、門前が弁天通として整備された。
 秀閑寺という別当寺を有したが廃絶、慶安年間以降は元町1丁目の増徳院が別当になった。元禄年中この元町の増徳院境内に仮殿を造営し、上之宮杉山弁天と唱え、平日はご神体をここに奉安して置き、本社には前立のご神体のみを置いて下之宮清水弁天と呼んだ。
 1869年に街区拡張のため、現在地の羽衣町に移転して厳島神社と改称。(Wikipediaより)



 いちおう、掛け軸とかを広島の厳島神社より送られてたりと、つながりがあるみたいです。
 まあ日本の神様は分霊・分祀があるから、分けて増えたと思えばいいのです。便利便利。


●とりあえず行ったり来たりと、目的地の定まらない無駄なふらふら移動を繰り返して、時間を見たらチャリティーイベント開始の11時に近くなっていたので元町商店街に戻ってみたものの。

 混雑はいまだに解消されておらず。

 とりあえずお腹が空いていたので、売ってたサンドイッチを買って食べつつ商店街を移動していると。
 商店街のスピーカーから、流れるアナウンス。

 F1マシン展示中止のお知らせが。


 はうあ!


 ま、まあ……あんだけ混んでりゃなあ。
 詰め掛けたファンの一部がマシンに触れて……とかって十分考えられそうな状態だったし。

 がっくりしつつ、チャリティーイベントでTシャツを販売する予定の元町商店街五丁目に移動したら。

 おそらくイベントスタッフであろう、レッドブルのTシャツを着た人がハンディスピーカーで叫んでるのですよ。

 「混雑のため、チャリティーイベントのTシャツ販売は、開始の目処が経っておりません! インターネットのホームページでも販売を行っていますので、そちらでお求め下さい!」


 はうあぁ!!


 ま……マジデスカ。
 今日ここまで来たのは、それが目的のひとつだったというのに……。

 なんかげんなりしたので、「もういいや、せっかくだから中華街でお昼食べて帰ろう……」と、元町を離れることに。

  

 横浜中華街(よこはまちゅうかがい)は神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン(中華街)。以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割にあたる。
 約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。日本では、神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街とされる。(Wikipediaより)


 テキトーにうろつき。
 テキトーにお店を眺め。
 で、お値段張るようなところはキビシイので、財布に優しそうで、かつ混んでなさそうなとこでご飯を食べて。
 せっかくなので会社の人たちにお土産を買い。

 はー疲れた疲れた……と歩いていたら、どこからか爆竹のような音が。

 んんん?

 どうせこれから帰るだけで、特に用事もない身なので、音のする方角を目指してみると。
 中華街に来たときに会った建物の裏手から聞こえてくるような。


  

 横濱媽祖廟【よこはままそびょう】
 『媽祖』は北宋時代(960年-1127年)に福建省の林氏の娘として生まれました。生まれてから一ヶ月、声も泣き声もあげない林氏の娘は、林黙娘(りんもうにゃん)と名付けられました。小さい頃から才知に長け、16歳で神から教えと銅製のお札を授けられたといわれています。神通力をつかい、雲に乗って島を巡回し、お札の力で悪や災いを退け、人々の病を癒す彼女を『通玄の霊女」と尊敬の意を込めて呼ぶようになりました。 28歳の9月9日に修行を追え、天に召された後も、赤い衣装をまとって海上を舞い、難民を救助する姿が見られたので人々は廟を建て、護国救民の神様として祀るようになりました。その力は国中に広まり、歴代の皇帝も『天妃』「天后』『天上聖母』などの名を贈り敬意を表しました。『媽祖』は航海の安全を護る海の神としてのみならず、自然災害や疫病、戦争、盗賊から人々を護る女神として、現在でも中国大陸や台湾はもとより華僑が住む世界各地で信仰されています。(横浜中華街ホームページより)



 ということで、媽祖廟の階段を昇って建物の裏へ。
 裏手は公園でした。そういえば、お昼食べるところを探してさまよってるときに、パイプ椅子が並べられた広場があって、「あー、なんかイベントでもやるのかな?」などと思いつつ通り過ぎたのですが。

  

 あー、これはあれか! 中国獅子舞って奴か!
 知識では知ってたのですが、実物が動いてるさまは初めて見ました。
 日本の獅子舞と違ってアクロバティックで大変そうなアレですよ。

 太鼓とドラで、どんどんしゃんしゃんしゃんしゃん! といかにも中国って感じの響きに合わせて獅子舞が踊るのですよ。

 よく動くなあ、と感心して眺めていたら。

  

 おおお?
 何か柵を乗り越えて、観客がいる方に移動してゆくぞ?

  

 観客がいる方には、すでに先に踊ってて場外移動してたもう1頭がいたようで。
 観客に囲まれてる中で、2頭が向かい合って、にらみ合ったり伸び上がったりパフォーマンス。

  

 で、2頭とも柵内に戻ってきて、酒瓶加えて観客のほうに放り投げたりというパフォーマンスをしたあと。

  

 伸び上がって、口から垂れ幕出してフィナーレ。


  

 そのあとは女学生さんたちが中国っぽい踊りを始めました。
 ずっと見てても良かったのですが、いい加減早起きした分のしんどさ&歩き回った疲労も無視できない状況だったため、これにて帰宅。


●で。
 帰る際に「もしかしたら、元町に戻ったらチャリティーのTシャツ販売開始してないかなあ」と淡い期待を持って元町に寄ったら。
 案の定販売を開始していたので、買って帰ることができたのですよ。

 めでたし、めでたし。


 (後日談)
 買ったENERGY FOR JAPANのレッドブルTシャツを着てみたのですが。

 洗濯したら、一緒に洗ったものの金具が引っかかりでもしたのか、右胸のところにさっそく穴が……。
 そしてロゴにかすれが……。

 しょんぼりです(´・ω・`)ショボーン


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